大学で写真を学んでいた私がはじめて勇払原野を訪れたのは、浜厚真沖で苫東開発が正式着工された1976年の夏、二十歳の時だった。車も金もなかったためカメラをブラ下げ野宿しながら歩き回るしか方法がなかった。
国鉄日高本線勇払駅と浜厚真駅の間の弁天地区は不気味なほど静寂だった。そのあちらこちらには無残な廃屋が点在し、サイロや家主の去って久しくなるブロック造りの家が窓枠だけを残し、ひっそりと建っていた。
戦後多くの開拓農民が入植した勇払原野の中でも、とりわけ自然環境の厳しかったのが弁天地区。湿地帯であったため排水溝を掘ったり客土したり、血のにじむような努力のすえ開墾した。サイロに使うブロックまで自分で作ったという。そんな中、酪農に光明が見えはじめた矢先の1960年代後半、苫東計画による強引な土地買収で人々はこの地を去らなければならなかった。
ここが鹿島をはるかに凌ぐ大規模臨海工業基地になるとは到底信じられなかった。
写真と文:加藤雅昭
赤旗北海道版 1996年4月17日発行紙に掲載
タイトル写真説明
撮影:1989年8月25日 旧国道235号線
国道235号線は太平洋の海岸に沿って日高方面へ向かう幹線道路だったが苫東の工事が進むと内陸の方に切り替えられてしまい写真正面にある人口5,000人の勇払の町は取り残されてしまった。後方の山は活火山・樽前山。