一昨日、JPSメンバーである写真家の宇井眞紀子さんから写真集「アイヌ100人のいま」が届いた。この写真集は「日本全国100箇所で撮影したアイヌ100組のポートレート」をクラウドファンディングで実現したもの。
宇井さんによるとアイヌを撮影するきっかけとなったのは、ふと見かけた「二風谷ダム建設の記事」だったということだだが、その後も全国各地で生活するアイヌへと視野を広げ、数多くの写真展や出版物で作品発表し続けている。
元々「アイヌ」とは「人間」を意味する言葉だから、宇井さんがポートレート(人間=アイヌ)を撮り続けていることはきわめて自然な流れだ。
また、「静かな大地」という意味の「アイヌモシリ」とは、本来は特定の地域を指すものではなかったのだが、現在では北海道を指すことも多いという。
そうであるならば、今回の写真集で北海道のみならず、全国にアイヌが散らばっていることが証明されたのだから、アイヌモシリは日本の国土全体を指しても構わないのではないかとさえ思えてきた。
多くに方に、今回の写真集を通じて「アイヌ100人のいま」に触れ、日本の先住民族である100人のアイデンティティを感じとって欲しいと思う。
※タイトル写真:二風谷ダム展望台に立つ萱野茂氏 1991年3月26日撮影
苫東と二風谷ダムについて
宇井さんは「アイヌとの出会いは25年前」と書かれているので、私がダム問題取材で二風谷を訪れるようになった頃と同時期ではないかと思われる。
私自身は苫小牧東部大規模工業基地(通称・苫東)問題を1976年から追い続けているが、苫東への工業用水供給用として計画されていた二風谷ダムについて知ったのは、雑誌の仕事で千歳川放水路問題を取り上げるべく、作家の故・立松和平氏に取材と執筆をお願いした1991年のことだ。
千歳川放水路問題と萱野茂氏
千歳川放水路は苫東を破綻状態へと追いやった北海道開発庁が、汚名返上とばかりに推し進めていた「日本海に流れている千歳川を洪水時に苫東を通して太平洋に流そうという荒唐無稽な計画」だったから、取材では苫東問題についても触れる必要があったのだ。
立松さんから「二風谷ダム、酷いよねぇ~」と言われたのだが、恥ずかしい話、長年苫東問題に取り組んでいたくせに「二風谷問題」はまったく把握していなかったのだ。
二風谷を流れる沙流川の水を工業用水として苫東まで運ぶ計画だというのだが、その間にはシシャモが遡上する河川として有名な「鵡川」があり直線距離でも数十キロは離れていたから、まさか「二風谷問題」が苫東に関係しているなどとは夢にも思わなかったというのが正直なところだ。
実際の取材では立松さんとは別々に現地を訪れたのだが、二風谷ダム訴訟の原告の一人で、後にアイヌ初めての国会議員となる故・萱野茂さんのご自宅を訪ねたのが1991年3月26日のこと。
萱野さんのお宅でお茶をいただきながら記者が取材を進めたのだが、お茶を勧めてくれたのが、宇井さんの写真集にも登場する萱野れい子さんだったように記憶している。
その後、雪の残る二風谷ダム建設現場をバックに萱野さんの写真を撮影させていただき、そこから私の「二風谷通い」が始まることになった。
毎年開催されるチプサンケ(舟おろし祭り)、国際先住民年のイベント(二風谷フォーラム)、ダムの空撮など取材を重ね、1996年には苫・二風谷・放水路問題をまとめた写真展「勇払原野―静かな大地の妖怪」を新宿、札幌、苫小牧で開催したのだが、「千歳川放水路問題の終焉」や「苫東の破綻」とともに「二風谷通い」も徐々にフェードアウトしてしまった。
ライフワークである苫東地域の撮影は今でも続けているが、宇井さんの写真集に刺激を受けたのか、再び二風谷の地まで足を延ばしてみようという気持ちが……。
わずか20年前の1997年まで「北海道旧土人保護法」という差別用語が含まれた法律が存在していた事実、日本政府がいまだにアイヌを「先住民族」と正式には認めていない事実、北方領土の先住民はアイヌであるという事実……等々について、近日中に報告したいと思う。